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私はかつて女の子であっただけで 男の子であったことはないから、男の子の場合は知らないのだけれど 大概の女の子は、純粋病にかかったことがあるのだと思う。 今現在は女の子ではないので、ウィルス保有者として生きているわけだが 保有者の自覚はある分、患者の見分けは結構つくつもり。 それがどんな病気かは、病名が語るそのままです。 そんな純粋病のイコンである少女:オンディーヌを描いた、ある意味聖書のような作品、ジロドゥの「オンディーヌ」が、なんと、光文社古典新訳文庫から、その名の通り新訳で、文庫で、発売になっています。 今まで手に入れ難い、重たいジロドゥ全集でしか読めなかった作品が、いつでも持ち歩ける文庫に! ここまで読んで何かひっかかった方は是非この機会に入手されますことを、心よりおすすめします。 オンディーヌ (光文社古典新訳文庫 Aシ 3-1) ジロドゥ / / 光文社 ISBN : 4334751520 私が「オンディーヌ」と出会ったのは、かの作品に感銘を受けて書かれた吉原幸子の詩「オンディーヌ」が先でした。 「水 わたしのなかにいつも流れるつめたいあなた 純粋とはこの世でひとつの病気です。」 と始まり 「わたしのなかにしか棲まなかった わたしの病気 オンディーヌ 遠い森かげを いつまでも ひそやかに せせらぎにまじって 月よりも白い あなたの 思ひつめたはだしの 足おとがする さうして つひにその姿が見失はれたとき 驟雨! あなたはまた ネオンサインに照らし出される 白い無数の槍となって するどく わたしを洗ひにくる!」 と結ばれるこの詩のオンディーヌは、「わたしのなかにしか棲まなかったわたしの病気」と書かれるようにジロドゥのオンディーヌとは多少異なり、純粋病のイコンとしてのオンディーヌではなく彼女自身が純粋病患者として描かれているのですけれど、だからこそ、その言葉は胸に迫るものがあります。 ウィルス保有者としての自覚がある方にはこちらもおすすめ。 さすがに詩集「オンディーヌ」はなかなか入手困難なのですが、思潮社から出ている現代詩文庫「吉原幸子詩集」で読めます。 思潮社から吉原幸子詩集は続・続々とあわせて3冊出ているのですが、「オンディーヌ」が入っているのは最初の「吉原幸子詩集」です。 吉原幸子詩集 (現代詩文庫 第 1期56) 吉原 幸子 / / 思潮社 おまけ 上記2点を読んで「うわーわかるー!!」と共感してしまった、重篤な純粋病患者にはステラ・ダフィの「世にも不幸なおとぎ話」もちらりとおすすめ。 「昔々、遠くて近い国に美しい王女クシュラが生まれました。美しさと知性をそなえたクシュラでしたが、ただひとつ欠点がありました―妖精の失敗で、思いやりの心が抜けおちてしまったのです。成長したクシュラは、“けがらわしい”永遠の愛に溺れる恋人たちを別れさせるため、ロンドンへやってきます。自由自在に姿を変えられるクシュラのまえに次々と恋人たちが犠牲になっていきますが、やがて娘の暴走を阻止すべく、王様とお后が美しい心をもつ王子を差しむけたことから、クシュラのハートにある変化が…」(amazon解説文より) 世にも不幸なおとぎ話 (BOOK PLUS) ステラ ダフィ / / アーティストハウス ISBN : 4048973231 amazonの評があまりにも最悪でびっくり(そしてあまりにもストレートなその見方にもびっくり)。 純粋な自分を守りたいがゆえに、ありのままの世界はもちろん、愛すらも拒絶する、その乙女心が全くわからない女子も世の中には大勢いる・・・ 「私は一人で完璧」「だからこの完璧さを乱す者は許さない」を貫く孤高の王女クシュラにとって、「思いやりの心」「愛」なんて他者にすりよる生ぬるい感情はまさにけがらわしい毒。 ペアでなければ幸せになれないという世の風潮へのアンチ・テーゼとしてもとれる本作において、作者はその姿勢を最後まで崩しません。ラスト・シーンの彼女はまさしく少女神の様。 まぁ女子の成長というのはある意味、許容量で量られるものであって、「許容」が正しいとされる価値基準が染み付いてしまっている人には「許容しない」ことが悪に見えてもしょうがないのかもしれない。 でも、それゆえに 「許容しない」ことでその「定められた成長」を拒否する少女だって当然いるし、その全身全霊をかけた拒否が純粋病でなくてなんぞや!と私は思うのであります。(このタイプのイコンはもちろん、アンチゴーヌを代表とするアヌイのヒロインたち!) そんな「世にも不幸なおとぎ話」。個人的にセレクトしたテーマ曲はコレ。 #
by etica
| 2008-04-16 14:20
| book
鏡を見ると目前にはっきりと現れる、日々衰えゆく様々。 こんなに肉体の衰えが受け入れがたいのって心には肉体ほど年月が経っていないから?とも思うけど、でも経年によって変化するものって肉体だけじゃないよね。心も、子供の頃とは全然違ってきている筈。 で、思ったのだけど 心が肉体と同じようにはっきり見えたらどうかしら。 見ても読んでもいないからよく知らないけど、「ライラの冒険」のダイモーンってちょっとそれっぽいのかな? まぁそんな?感じで 肩に、その人の心を具現化した小さな生物がのっていて それがその人だけに見えるとしたら。 いわゆる「心が風邪ひいてる」状態とか 疲れてる、寂しい、ガチガチになってる、だんだん老化してる、 そんなのがはっきりと見えたら 便利だけど、やっぱりちょっとツラいかな。 でも、チョコ食べたら、一瞬ぽっと明るく輝いて しばらくするとまたしゅん、となっちゃって あー甘いものって一過性ねー とか 眠ってなくて身体がだるいと、肩にのってるその子もだるそうにしてて ああココロも寝ないと調子でないなー、とか。 いろいろ、よくも悪くも自分に対応しやすくなるかもしれない。 中には他人のそれも見えて、助けられる人もいて そういう才能がある人は医者になればいいと思う。 #
by etica
| 2008-04-08 14:18
| days
J・M・シング「アラン島」を読んでいたら、思いがけずゴス少女紹介のくだりが出てきたのでご紹介。 「夕暮れ時に、ひとりの娘とときどき会うことがある。この娘はまだ十代の半ばを過ぎてもいないのに、島で出会った誰よりもいろんな点でものごとを深く意識的にとらえているようだ。この子は本土でしばらく暮らしたことがあり、ゴールウェイで経験した幻滅が彼女の想像力に影響をあたえているらしい。 暖炉を真ん中にはさんで腰を下ろし、娘の話を聞いていると、ひとつの文章を語る間にも彼女の声は、子供らしい陽気さと、悲しみで疲れ果てた古い民族の哀調をおびた抑揚との間を、行ったり来たりする。ある瞬間には彼女は素朴な農民の娘であるが、別の瞬間には、先史時代の幻滅を知るまなざしで世界を見つめ、その灰青色の両眼のなかに、雲と海からなる外部世界の落胆のすべてを集約しているかのようにみえる。 僕たちの対話の話題はいつもとりとめがない。ある晩には、本土の町の話になった。 「あ、あれって変なとこ」と彼女は言った。「あんなとこに住みたくない。変なとこだもん。でも、変でないとこなんてあるのかしら。知らない。」 別の晩には島に住んでいるひとや島を訪れるひとが話題になった。 「××神父さまは行っちゃった」と娘は言った。「親切なひとだったけど、変なひと。神父さんたちってみんな変。でも変でないひとなんているのかしら。知らない。」 そして、長い沈黙の後、娘は、自分じしんもとても驚いたしそれを聞いたら僕だってきっと驚くに違いないことを打ち明けるかのような、深刻な面持ちで口を開いたかと思うと、あたし、男の子がとっても好きなんだ、と言った。 僕たちのおしゃべりはよく子ども時代特有の無垢なリアリズムでいっぱいになるのだが、彼女はいつもものごとを正確で魅力的に表現しようとして、涙ぐましいくらいにがんばっている。 ある晩、娘が自分の家の小さな脇部屋の暖炉に火を点けようとしているところへ、僕がたまたま通りかかった。どこにでもあるふつうの暖炉である。僕は手を貸してやろうとおもって、その部屋へ入り、風の通り道をつくるには暖炉の開口部に新聞紙をどんなふうにかざしたらいいのかやってみせた。娘はそのやりかたははじめて見たというので、僕は、パリには一人暮らしの人間がたくさんいて、みんな頼めるひとがいないからこうやって自分で火をおこすんだよ、と話してやった。彼女は床にぺたりと座りこんで泥炭の火を見つめていたが、僕が話し終えるとびっくりしたように顔を上げた。 「それじゃまるであたしじゃん。都会に孤独なひとたちがいるなんて信じらんない。」 僕たちはおたがいに共感しあっていたけれど、、その底に依然として深い溝が横たわっているのを、ふたりとも感じていた。 この晩僕が帰ろうとしたら、娘は、「そうか、おにいさんもやがて地獄へ堕ちるんだよね」とつぶやいた。 日没後に若者たちがどこかの家の食堂兼居間(キッチン)に集まってトランプをするときに、若い娘たちも二、三人やってきて一緒に過ごすことがあるが、そんな場所で、この娘に会うこともよくある。 そういうとき、彼女の目は蝋燭の明かりを映して輝き、頬は初々しい内面の激動に赤らんでいる。 そして、ついには、毎晩泥炭の炎にかがみ込んでものうげにつぶやいているあの娘と同一人物とは思えなくなる。」 J・M・シングの「アラン島」が出版されたのは1907年。 お金持ちの末っ子がやることを見出せずに鬱々としながらヨーロッパ中ふらふらしてる頃にイエイツに出会い、「アイルランド語を勉強したいならアラン諸島に行ってみれば?」と言われ、旅立ったアラン島によって運命を変えられた。 アラン島で聞いた数々の伝承を元に、彼はアイルランド文芸復興をになう戯曲作家になった。彼の紀行文「アラン島」は、今日に至るまで、アラン島のイメージを決定的に形作ることになる。 アラン島にはずーっと憧れているのですが、文学的に憧れているというわけでなく単にあの景色に憧れているので、有名なこの本も今に至るまで読んだことなかったのですけど・・・正直、イメージと違っていたかも。もっとかたくるしい本かと思っていたら、そこにあったのは、新訳ということもあってか、25歳の(大学関係者でもなんでもない)青年の瑞々しい文章でした。まぁ訳もいいんだけど・・・漢字とひらがなのバランスが絶妙だし、言葉遣いも巧い。 でもってゴスっ娘・・・。百年前にアラン島にこんな子が!とちょっと驚いたけど、考えたらイエイツもその戯曲で似たようなメンタリティの娘を描いていることだし、何より「アラン島」で繰り返し語られる「アラン島の女性たちの運命は厳しくつらいものだ」という言葉-アラン島での「いい女」の一番の条件は「子供を沢山産む女」であり、ようやく育て上げたその子供もいつ海に失くすかもしれないという運命-を考えると、こういう娘が出てきても全然おかしくないなぁと思う。少女性を生み出す観念のひとつには「(子供を産む性として以外の)自分は世界に必要とされていない」ってのがあると思うので。 にしても「地獄へ堕ちるんだよね」って。 シングって現在の日本に生まれ育っていたら確実に筋肉少女帯つーかオーケンのファンだったと思う。いやなんとなく。 #
by etica
| 2007-11-18 14:09
| book
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