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レイトショーないし、行ける時に行っておこう、ということで 本日も行ってまいりました「狸御殿」 昨日は「難しい理屈いっさいなし!」なんて書いちゃいましたが 「おとぎばなし」だからこそ象徴性は高いわけで、 狸姫と雨千代の恋という形で象徴したもの、作品として意図されたテーマは「幻想と現実の交わりとは可能か」だと思います。 以下、ネタバレですので映画をご覧になった方のみどうそ。 この作品は、百姓 弥助の 「人は狸に恋してはなりませぬ。ましてや狸が人を恋うるなぞ、もっての他の皮算用。 なれど、今宵は十三夜。叶う筈なき恋の罠を、見事仕掛けてみせましょう。」 という前説で幕をあける。 その後現れる狸の領域はロケ撮影の百姓の世界とは異なり、はっきりとスタジオセット・芝居の大道具で構成された人工の世界。 つまりこの時点において既に 「狸=虚構(=幻想)、人間=現実」という対比は宣言されている。 その後の雨千代と狸姫の出会いにおいて交わされる歌 「君やこし 我や行きけむ 思ほえず 夢かうつつか 寝てかさめてか」 「かきくらす 心の闇に 惑ひにき 夢うつつとは 世人さだめよ」 においても、このモチーフ(幻想と現実)は繰り返される。 以下はすべて「狸(=幻想)と人(=現実)の恋(=交わり)」という転換で読むことが可能。 たとえば、姫の乳母たるお萩の局は「人は病」と、雨千代と姫の恋を裂こうとする、これは、幻想を成立させるには現実の介入は危険である、と読み解くことができる。 仔狸たちに歌われる「人と関わった狸の死」はすべて自死。現実は幻想を壊死させるのだ。 狸姫に代表される幻想・雨千代に代表される現実、という関係性がゆらぐのは、雨千代の父である安土桃山の手により狸姫が死に瀕するという展開に入ってからだ。 ここで注目すべきは狸姫の奇跡の快癒よりも、霊峰快羅須山で凍死しかけていた筈の雨千代の突然のがらさ城への登場である。 彼はここで狸の技を使い、父安土桃山から「魔性のものに成り果てたか!」と罵倒されるのだ。 彼が誰かに救われたという描写はまったくないので、ここは「黄泉へ赴き死を経た雨千代は幻想の存在(=狸)になった」と読めるのだが、百姓家における駝鳥道士の最後の台詞により、それは誤りであったことが判明する。 雨千代を放逐せよという命を遂行中に狸と勘違いされて百姓に捕まった彼は、物語の間たびたび箸休めのごとく登場しては「俺は狸じゃない!」と訴えていた。 しかし最後に彼は「俺は狸だったのかもしれないなぁ」と口にするのだ。 雨千代の狸への変化はひっかけであり、がらさ城の住人は実は狸(=幻想世界の住人)であったということが明らかになるのである。 つまり、現実と幻想の融合はなかったのだ。映画という幻想の中でさえそれは否定される。 現実と幻想の融合はありえず、 ふたりの結びつきはお互いがもともと同じ幻想世界の住人であったから可能になったわけであり、 「愛のもとに悲しみがよろこびに変わる」のも、幻想世界でのみの出来事なのだ。 構成としては 「幻想(狸姫)と現実(雨千代)の交わり(恋)の予感」(起) ↓ 「周囲に否定される中、幻想(狸姫)と現実(雨千代)の交わり(恋)が発展する」(承) ↓ 「雨千代(現実)と関わったことにより狸姫(幻想)が死に瀕する。更に雨千代(現実)が一旦死ぬことにより狸(幻想)へと変化する(ように見える)」(転) ↓ 「もともとがらさ城の住人は狸(幻想)であった、と示唆される」(結) となる。 がらさ城の住人が狸と等しく幻想の存在だということは、舞台劇のセットのようながらさ城内部と百姓家との対比によって予め予告されているのだが、最後の最後に至って監督はダメ押しの如くそれを告げ、更にわからない人には、というように 「狸は人に恋してはなりませぬ。ましてや人が狸を恋うるなぞ、もっての他の皮算用。 なれど、今宵は十三夜。咲こう筈なき恋の花を、見事咲かせて見せました。」 と、百姓の妻(現実を代表する存在)であるコメに語らせるのだった。 「おとぎばなしですから。」とでもいうように。 ちなみにこれは 「幻想は現実に恋してはなりませぬ。ましてや現実が幻想を恋うるなぞ、もっての他の皮算用。 なれど、ここは映画館。咲こう筈なき恋の花を、見事咲かせて見せました。」 と置き換えることが可能。(・・・。) 寺山修司は「現実は死んだ。幻想万歳!」なんて幻想が現実を侵略する日を夢見たけれど、幻想的な作風で知られる鈴木清順は実はリアリストだったってわけで。 夢見がちな文系としては、嘘でも幻想と現実との幸福な融合がありえると言ってもらいたいわけなんですが、こうまではっきりと「そんなことはありません。映画館を出たら現実の世界に帰ってね。」と言われると 泣くしかない。 以下、知ってても知らなくてもOKなプチ解説。映画見てなくてもOKだと思うので隠しません。 ・何故わざわざ美空ヒバリなのか 物語の冒頭に現れる地図によると、位置関係は 快羅須山 狸ヶ森(狸御殿) 百姓の村 がらさ城 つまり、狸ヶ森の向こうは幻想領域。幻想の更に奥まった先には黄泉の国があるというわけで、快羅須山があの世の象徴であることは明らか。(雨千代の母が放逐された、極楽蛙が生息している、などからも伺える) あの世と幻想の両方を象徴する存在として、「既に死んでいる」存在を「デジタル(人工)」で表現する必要があったのではないかと思われる。 様々な媒体で、「候補にあがった人と調節がうまくいかなかった」「狸御殿とひばりさんは縁が深い」等理由があがっているが、まぁバックアップする裏の理屈としてはこんなところかと。 ・何故極楽カエルなのか 「ケロリーン♪」と場内の笑いを誘う極楽蛙。 蛙は古来より復活の象徴。 春になると現れる→春を呼ぶ力を持つ→死んだ存在を復活させる能力がある。黄泉と関係が深い。と古代人には思われたらしい。 ・びるぜん婆は何を食べているのか しょっちゅう何かを口に含んでは種をぷっと吹き出すびるぜん婆。食べているのは美容によいナツメヤシ・・・かもしれない。が、うがった見方をすれば、不老不死の霊菓・非時香菓(ときじくのかぐのみ)なのではないかと思われる。 ・なんで「雨千代」という名前なのか 多分、「水もしたたるいい男」からではないかと・・・ ・唐から狸御殿に迎え入れられた狸姫。「人は知らぬがよいよい、狸の事情」とは何か 「狸の事情」=チャン・ツィイーが起用されたこと、というよりも 何故わざわざ中国の女優が起用されたのか、から考えたい。 「狸=夢」という式に従うと、日本だけでは幻想世界が成立しにくくなったから、海外より夢見る力を補充した、と考えられるのではないかと。ちょっとエンデの「果てしない物語」風。 ・雨千代と狸姫のあいだで交わされた短歌は 「君やこし 我や行きけむ 思ほえず 夢かうつつか 寝てかさめてか」 「かきくらす 心の闇に 惑ひにき 夢うつつとは 世人さだめよ」 古今和歌集より。 在原業平と伊勢の斎宮との間で一夜の逢瀬があった。「君やこし・・・」はその後斎宮から業平に送られた歌。「かきくらす・・・」は業平から斎宮への返歌。 二人の間に起きたことは夢だったのでしょうか現実だったのでしょうか 夢か現実かなどは世の人に決めてもらいましょう。いまだ惑っている私にはわかりません・・・ 第一皇子の子でありながら不遇な身の上にあり、流浪しつつ恋と歌で名を立てた業平は雨千代とイメージがかぶる。更に禁忌とされている斎宮との逢瀬もやはり狸姫との恋と同イメージ。 業平と言えば一番有名なエピソードは「鬼一口」」(「しら玉か何ぞと人のとひし時露とこたへてきえなましものを」という歌で有名。業平と帝の后候補であった姫が、駆け落ちしたものの姫の兄に連れ戻され、仲を引き裂かれた事件による。)だろう。雨千代を業平に見立てた後の場面は、素直に「道行」→「蛍」と流れる。次の場面での雨千代の台詞「素敵な思い違いだ」は、この歌(姫が露と真珠を見間違える)からの本歌取りか。 ・終盤、安土桃山が横たわる絵の上に「1582」と数字が置かれているのは何故か 1582年は織田信長の没年。名前・ばてれん保護等、安土桃山が信長を意識しているのは明白。己のモデルとして意識した存在の死を思い自分の死を予感する、という場面なわけ。 ちなみに安土城は奇想の城として有名。中は吹き抜けだった(!)なんて説もある。 清順監督の映画は言葉でくだくだしく説明せず絵で説明する傾向があるので、どうしても象徴性が高くなるのですが、その象徴が読めないと「なんだかよくわかんない」ってことになりがちです。 綺麗な映画なのでただ見ていても楽しいのですが・・・「わかんない」って言いつつ「くだらない」「つまんない」って言われる(なんか「わかんない」って言う人程文句たれるような・・・)のはFANとして悔しいんだよぉ!ってことで、それこそ蛇足ながら書いてみました。 あくまでも私の読みですので、違っている場合も当然あります。ひとつの解釈としてご了承ください。 by etica | 2005-05-29 22:31 | movie
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